浜松八幡宮 楠倶楽部 ●呉竹荘グループ
浜松駅、八幡駅/JR浜松駅北口より車で5分・遠州鉄道八幡駅より徒歩1分
アクセス/TEL
- この会場が気になったらブライダルフェア一覧へ
- フェア参加が難しい方は見学予約
- クリップする
-
クリップ一覧に追加しました
雲立ちの楠
更新:2012/9/12 20:20
こんにちは、サービススタッフの津野田です
今日はクスノキクラブの名前の由来ともなっております
「雲立ちの楠(くもたちのくす)」を紹介させていただきます

参道を歩くと右手に見えますこの大きな楠、樹高約15メートル、幹回り約13メートル、根元回り14メートル、枝張りは東西約21メートル、南北約23メートルにも及ぶ巨木です。
樹齢も1000年を超えておりまして、長きに亘って浜松の歴史を見守ってきた、由緒ある楠です。
この楠、雲立ちの楠と呼ばれるようになったのには云われがありまして
伝承によると、元亀3年(1572)、三方ヶ原の合戦に敗れた家康は、当八幡宮に逃れこの楠の洞穴に潜みました。そして武田軍の追手を逃れて武運長久を祈願したところ、
「楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り、浜松城方面へ飛び立った」
といい、さらに、「八幡宮の加護により戦われに利あるべしと勇躍、城に戻ると犀ヶ崖に布の懸橋を渡して武田信玄の入城を防ぐことができた」
とあります。
雲立ちの名はこの伝承に由来し、家康開運の八幡宮の楠を「雲立ちの楠」と呼ぶようになりました。 その後、徳川家康公は当八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗、弓、神馬を奉納、家康公が江戸に府在の折は、名代を使わして参拝したといわれます。
徳川家康公にまつわる伝説は沢山ありますが、調べていたらもう一つ、家康公と雲立ちの楠にまつわるお話を見つけました。
今は、むかし。
元亀三年の十二月、有名な三方原合戦で徳川家康は、散々の負け戦。 この時、武田の軍勢に追われた家康は、降りしきる雪の中を、真っ白い馬に跨って、命からがら野口(浜松市八幡町)の八幡様の境内へ逃げ込みました。
八幡様の境内には、今でも、十五メートルもある大楠が、そび立っていますが、当時から大きな木でした。
家康が、馬を走らせてこの木の下まで来て、ふと、その根元を見ると、大きな洞穴があるではありませんか。
「かたじけない。これぞ、神のお恵みであろう。」 家康は急いで白馬に跨ったまま、その洞穴の中へ隠れました。
ところが、白馬の白い尾だけが、穴の中に入りきれないで、外にとび出していました。
これに気が付いた一人の村人が、
「あ、お殿様、それ、それ。馬のしっぽがまだ外へ出ていますよ。早く隠さなくては、敵に見付かってしまいます。」
と言って、急いで白馬の白い尾を洞穴の中へ押し隠しました。
武田勢が家康を捜しに来たのはそのすぐ後でした。武田勢は、家康を見付けることが出来ずに帰って行きました。家康は危うい所で命が助かりました。
喜んだ家康は、お礼のしるしに村人に望むものを与えようと言いました。
すると、村人は、わたしに姓をお与え下さい、と申しました。
そこで家康は、
「白い尾を隠してくれたから、白尾という姓にしなさい。」
と、白尾の姓をあたえました。
今は浜松市になった、もと浜名郡曳馬地方に「白尾」という姓を名乗る家がありますが、その由来はこのような話として伝えられています。
1000年以上も生きているので、沢山の歴史や伝承があります。 秋に近づき、大分昼間も過ごしやすくなってきたので、まだこの楠をご覧になった事のない方は、ぜひお越し下さい。間近で見ると迫力がありますよ
今日はクスノキクラブの名前の由来ともなっております
「雲立ちの楠(くもたちのくす)」を紹介させていただきます


参道を歩くと右手に見えますこの大きな楠、樹高約15メートル、幹回り約13メートル、根元回り14メートル、枝張りは東西約21メートル、南北約23メートルにも及ぶ巨木です。
樹齢も1000年を超えておりまして、長きに亘って浜松の歴史を見守ってきた、由緒ある楠です。
この楠、雲立ちの楠と呼ばれるようになったのには云われがありまして
伝承によると、元亀3年(1572)、三方ヶ原の合戦に敗れた家康は、当八幡宮に逃れこの楠の洞穴に潜みました。そして武田軍の追手を逃れて武運長久を祈願したところ、
「楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨り、浜松城方面へ飛び立った」
といい、さらに、「八幡宮の加護により戦われに利あるべしと勇躍、城に戻ると犀ヶ崖に布の懸橋を渡して武田信玄の入城を防ぐことができた」
とあります。
雲立ちの名はこの伝承に由来し、家康開運の八幡宮の楠を「雲立ちの楠」と呼ぶようになりました。 その後、徳川家康公は当八幡宮を徳川家代々の祈願所と定め、旗、弓、神馬を奉納、家康公が江戸に府在の折は、名代を使わして参拝したといわれます。
徳川家康公にまつわる伝説は沢山ありますが、調べていたらもう一つ、家康公と雲立ちの楠にまつわるお話を見つけました。
今は、むかし。
元亀三年の十二月、有名な三方原合戦で徳川家康は、散々の負け戦。 この時、武田の軍勢に追われた家康は、降りしきる雪の中を、真っ白い馬に跨って、命からがら野口(浜松市八幡町)の八幡様の境内へ逃げ込みました。
八幡様の境内には、今でも、十五メートルもある大楠が、そび立っていますが、当時から大きな木でした。
家康が、馬を走らせてこの木の下まで来て、ふと、その根元を見ると、大きな洞穴があるではありませんか。
「かたじけない。これぞ、神のお恵みであろう。」 家康は急いで白馬に跨ったまま、その洞穴の中へ隠れました。
ところが、白馬の白い尾だけが、穴の中に入りきれないで、外にとび出していました。
これに気が付いた一人の村人が、
「あ、お殿様、それ、それ。馬のしっぽがまだ外へ出ていますよ。早く隠さなくては、敵に見付かってしまいます。」
と言って、急いで白馬の白い尾を洞穴の中へ押し隠しました。
武田勢が家康を捜しに来たのはそのすぐ後でした。武田勢は、家康を見付けることが出来ずに帰って行きました。家康は危うい所で命が助かりました。
喜んだ家康は、お礼のしるしに村人に望むものを与えようと言いました。
すると、村人は、わたしに姓をお与え下さい、と申しました。
そこで家康は、
「白い尾を隠してくれたから、白尾という姓にしなさい。」
と、白尾の姓をあたえました。
今は浜松市になった、もと浜名郡曳馬地方に「白尾」という姓を名乗る家がありますが、その由来はこのような話として伝えられています。
1000年以上も生きているので、沢山の歴史や伝承があります。 秋に近づき、大分昼間も過ごしやすくなってきたので、まだこの楠をご覧になった事のない方は、ぜひお越し下さい。間近で見ると迫力がありますよ

この記事を共有する
この記事つぶやく
コメントを書く